日本の身体観と西洋思想—日本人に合った体づくりとは?|小坂航
- kosakawataru6
- 3月20日
- 読了時間: 4分

日本の身体観と西洋思想—日本人に合った体づくりとは?
現代のトレーニングは、西洋思想を基盤にし、筋肉の大きさや見た目の美しさを追求するものが主流となっています。
その背景には、古代ギリシャに端を発する「肉体美=人間の理想像」という思想があります。
古代ギリシャでは「カロカガティア(Kalokagathia)」という概念があり、肉体の美しさ(Kalós)と精神の善さ(Agathós)の調和が理想とされ、理想の人体を追求した彫刻が数多く作られました。
鍛え上げられた肉体は「神に近い存在」とされ、オリンピックなどの競技文化も、肉体の力を誇示する場として発展しました。
古代ギリシャにおいても、肉体鍛錬は単なる外見の美しさを求めるものではなく、精神の向上と一体となったものだったのです。
一方で、日本には本来、似ているようで異なる身体観が存在していました。
この違いこそが、私がアウターマッスルではなくインナーマッスルに目を向ける理由となりました。
古代ギリシャでは、肉体美と精神性の調和を理想とし、それを競技や彫刻などで表現してきました。
それに対し、日本では、強さを前面に押し出すことよりも、内に秘めることこそが美徳とされてきました。
この価値観の違いは、芸術表現にも色濃く表れています。
古代ギリシャの彫刻が、筋肉の緻密な造形を通じて力の象徴を示していたのに対し、日本の美術は異なる価値観を持っていました。
例えば、仏像や日本画に見られる人物表現は、筋肉の逞しさを描くのではなく、精神の深みや静謐な佇まいを重視しています。
武士の肖像画にしても、力強さを強調するのではなく、内に秘めた精神性を映し出すことに重点が置かれています。
強さとは、内側に備わり、必要な時にのみ発揮されるものであったのです。
武士の鍛錬の根底にあったのは、単なる自己強化ではなく、「何かあったときに大切なものを守るため」という精神でした。
己のためではなく、家族や仲間、愛国心や忠義のためであり、個人の力のためではありませんでした。
この思想は西洋においても、騎士道という形で同じく「愛のために戦う」精神が存在していました。
やがて近代化の波とともに、日本もまた物質文明の流れに飲み込まれ、騎士道や武士道の崇高な精神は失われていきました。
戦後の日本は、経済復興とともに「物質的な豊かさ」が最優先とされる社会へと変貌し、トレーニングもまた肉体第一の価値観へと向かっていきました。
かつて武士が「死ぬことと見つけたり」と覚悟を持ち、精神を鍛錬することに価値を見出していた時代とは異なり、
戦後日本は「いかに長く生きるか」が最優先となり、肉体を維持すること自体が目的化されていったのです。
この流れに、強い憂いを抱いたのが三島由紀夫先生でした。
三島先生は、「精神が物質を完全に上回る真の霊性文明」こそが、人間が本来あるべき姿だと考えていました。
しかし、ここで重要なのは 「精神が物質を超える」 という思想を持ちながら、なぜ「ボディビル」に打ち込んだのか?という疑問です。
一般的なフィットネスの観点から見れば、ボディビルとは「肉体を鍛え、強く、美しくすること」が目的とされます。
しかし、三島先生が行ったボディビルは、それとは異なるもので、「肉体を支配することで、精神が物質を超えることを証明しようとした」のではないでしょうか。
また、「自決するときに体が強くなければ、切りきれずに気を失ってしまう」という実践的な意味もありました。
三島先生にとっての肉体鍛錬は、ただの健康維持や美の追求ではなく、「精神が物質に完全に勝る状態を作るため」のものなのではないでしょうか。
とはいえ、現代社会はすでに物質文明の限界を迎えています。
戦争は今なお続き、権力、お金、土地、資源を巡る争いが絶えず、人々はただ生かされるだけの存在となり、家畜のように管理され、政治もまた、自己の権力を守るためだけのものとなっています。
一方で、大規模なデモや抗議活動が頻発し、多くの国民が現代社会に怒りを露わにしています。
しかし、単なる抵抗だけではなく、人間本来の生き方そのものを見直すべき時だと考えています。
それこそが、「生命燃焼を軸とした生き方」です。
三島先生は、その生命燃焼の思想を文学を通して訴えました。
もしこれを機に考え直してみるとしたら、トレーニングは単なる肉体の強化ではなく、生命をどう燃やすのかを見つめる機会にもなるのではないでしょうか。
私はトレーニングを通して日本人の身体観に立ち還り、これまで考えてきた内なる力が自然と湧き起こる深層筋トレーニングを提唱していきたいと考えています。
小坂航
Commentaires